神も仏もありゃしない。こんなこと言うと、毎日散歩がてらお寺にお参りに行ってるおばあちゃんに怒られそうだけど、そう思わずにはいられなかった。小さくても不幸がこれだけ一日に凝縮されると本当にうんざりする。


まず今日一つ目の不幸。寝坊だ。普段から寝坊気味と言えばそうだけど、今日だけは絶対寝坊なんてしてるわけにいかなかったのに。今日は前髪のハネも、化粧も、髪を巻くのだっておざなりにできない。前髪をしっかり定位置にもどし、いつも以上に時間をかけて、髪を巻き、いつもより丁寧にマスカラを睫毛に重ねていく。鏡の前にいる時間もいつもの倍近く。お母さんの大声が、早く家を出るように促す。私は、朝食をテーブルの上に置き去りにしたまま、玄関を飛び出た。



西浦高校は私の家から歩いて、15分以上、20分未満というところに位置する。もちろん、走ればもっと早い。前にだした新記録がちょうど10分。運動が得意ではないわりには、なかなかがんばったと思う。
少し走ると、前に西浦の生徒と思われる人たちがぽつぽつと何人か見えてきた。これくらいだったら、もう歩いても間に合うだろう、とケータイの画面のデジタル表示の時計を見て、息を漏らした。

少し走ると、肌の表面は冷たいのに体の中が熱いという温度差、違和感を感じた。この違和感は嫌いじゃない。走った距離も短いからか、体にほんのりと感じる疲労感も心地いいといえるものだった。

今日は風が強い。髪もひどいことになってるだろう。カバンの小さなポケットから、鏡を取り出して、走ったせいで分かれてしまった前髪を手で撫でて、巻いた髪を後ろから肩の前へと持ってくる。そして、ぼんやり歩いていると西浦の校舎が見えてきた。そこで気づいた。なんでこんなに視界がはっきりしないんだろう。
今日二つ目の不幸。コンタクト入れてくるの忘れた。しかも、記憶が正しければ、眼鏡も確か机の上に置きっ放しだ。



教室に入って、コートを脱いでカバンを置いた。そしてもう一度鏡を覗き込んで、変なとこは無いかとチェックする。さりげなく教室を見渡し、近くに人がいないことと、阿部くんがまだ教室に来ていないことを確認すると、カバンのファスナーをゆっくり開けた。

今日三つ目の、そして最大の不幸。どうして。何でよりによって今日。今日こそ伝えようと、大袈裟でもなんでもなく、一世一代の告白をするのだ、と意気込んでいたのに。もう一度それを見ることで、心を決めようとカバンを開けて、気づいた。そこにあるべきものが、見当たらなかった。口の中で反響するのやっとのほどの、小さな声。


「チョコ忘れた……」


その後、女子に友チョコを渡される度に「ごめんねー今日チョコ忘れちゃって」と引きつった笑みで言った。笑えるわけがない。大体の子は「うわーマジか。」と笑って軽くドンマイとか言った。
唯一、今日私が本命チョコを渡す予定だったと知ってる友人は鬼気とした顔で「忘れたって、全部?本命のほうも!?」と周りに聞こえないように、問いかけた。それに私は力なく答えると、友人は小さな叫び声で「…あんたバカじゃないの!」言った。
言われなくてもそんなの分かってますー…。あーあ…。神様はきっと私が嫌いなんだ。こないだ、拾った百円を交番に届けなかった罰ですか?でも百円くらいって思うじゃん!……はぁ。


授業中はそんな考えばかりが頭を巡った。ホント今日はダメな日だ。これは神様が渡さないほうがいいって言ってるってことなのかな?
昼食の時間、友人の机でお弁当を突付きながらぼやいた。すると向かいに座る友人は「なに言ってんのよ。信じてもないくせに」と返した。そして、「家が近いのだから、一回帰って取りにいってでも、意地でも渡せ」と強く言った。


放課後。友人に急かされ帰路を急ぐ。風が朝より強くなっていて、ただでさえ走って崩れた髪をさらに乱していった。
自宅に着いてすぐ、お母さんが何か言ったのも聞かずに冷蔵庫に置いてあった小さな箱を取った。本当は朝出すつもりだったのが、何時間も引き伸ばされたせいで、それは随分とひんやりとしていた。
そして走ってきた道を今度は逆方向に引き返していった。空はもう暗くなって静かに休みに入ろうとしてるように見えた。ゆっくりと夜を迎えようとしている。

水谷くんからの情報によれば、野球部は今日は確かミーティングだけの日だった。
14日は日曜日だから、12日または15日にまでは許される範囲だろう。でも今日、15日を過ぎた途端、『コレ』は効力を失ってしまうのだ。今日まではギリギリ、想いの渡し舟となってくれる。今日を過ぎてしまえば、『コレ』はただの食物に戻る。
どこかで聞いた話に似てると思った。そうだ、シンデレラ。ガラスの靴の魔法は12時まで。チョコの魔法は15日まで。お願いだから、間に合え。



学校に着くと、まだ、色んな部活が活動していた。グランドでは、サッカー部と陸上部が声を張り上げて練習をしていて、遠くからは吹奏楽部の演奏が飛んでくる。
今どこだろう。もう帰ったかな。とりあえず、友人が待っていてくれると言った自分の教室まで向かった。階段を一気に一段飛ばしで駆け上がる。
教室のドアを勢いよく開ける。無人。そこには誰もいなかった。日直が閉め忘れたのか、一番後ろの窓が開いていて、冷えた風が教室の中に流れこんでくる。
急いだあまり、入る教室を間違えたのかと、一旦廊下に顔をだして、ドアの上を確認してみた。1−7。間違えて…ない、よね。トイレでも行ったのかな、と考えていると後ろからドアが開く音がした。友人にこれからどうしようと、聞こうと振り返った瞬間、硬直。不意打ちにもほどがある。そこには、今、手にしているものを渡そうとしていた、私の想い人がいた。


「…阿部、くん」

「なんか、『が教室で待ってる』とか言われたんだけど」


友人の顔が浮かんだ。先になんか言ってよ!びっくりして変な声出すとこだった。でも、ありがたい。あとで、何か奢れって言われるんだろうな。実際、それくらいの価値があるのだろうけど。
やっぱり、この日に呼び出すってなったらどんな人でも気づくのだろう。阿部くんをちらりと見ると、阿部くんは少し赤くなっている顔を反らした。あぁ、コンタクト忘れてよかったかも。阿部くんがはっきり見えてなんていたら、緊張のあまり告白なんて出来やしなかっただろう。
そして私は、外から教室に入ってきた冷えた空気を深く肺に取り込んでから、二酸化炭素と共に精一杯の言葉を吐き出すのだ。


「好きです。チョコ、作ったからよかったら食べて、ください」

「あー…さんきゅ」


阿部くんが手の甲を頬に押し付けるように、右手を顔に持っていった。多分赤くなった頬を冷たい手で冷やそうとしてるのだと思う。私も同じように手で顔を覆っていたから。私の場合、指先まで完全に熱が広がっているから、手を頬に持っていっても意味がないのだけど。
チョコ忘れてよかったかも。こんなに冷えた夜でもこんなに熱い。昼だったら、きっと焼け死ぬ。なんてありえないことを考えた。私は今、ひどいくらい顔が赤いんだろう。見えないけど、分かる。こんなにも熱く感じているのだから。


神様、仏様、ありがとうございました。おばあちゃん、神様の文句言ってごめんなさい。
今日の不幸は、不幸のようであって、きっとそうじゃなかったのかもしれない。神様が親切してくれたのかも。そんなふうに考えられること自体がきっと幸せなのだ。



今日一番の強い風が吹いた。窓のカーテンが大きく揺れる。
火照った頬の熱を、夜の冷えた風がさらっていった。





夜の風が吹く



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