2月14日:小野妹子宅

ピンポーン。
午前9時ほど、玄関のチャイム音が僕以外誰もいない部屋に響いた。高校に入ってからは親元を離れて一人暮らしなので、自分以外に出る人はいない。僕の家は、六畳一間の安アパート。高校生の一人暮らしだとなかなか贅沢ができない。めんどくさいと思いながらも、温い布団から体を叱咤して起き上がった。平日に溜まった疲れと、昨日勉強を夜遅くまでしていたせいで、まだ睡眠が足りてない。昨日の勉強は思いのほか、はかどっていたようで、気づいたときには3時をまわっていた。多分、新聞の営業の人だろうから、悪いけど早く立ち去ってもらって、二度寝することにしよう。…太子だったら、どうしよう。約束もなしに、朝から人の家に押しかけてくるくらい、アイツは普通にする。太子だったら、さっさと追い払うことにしよう。家にあげたりなんてしたら、一体何をしでかすか。家の人間が玄関になかなか出ないことに、待ちきれないように二度目のチャイム音が鳴った。扉の向こうにいる人に聞こえるよう、少し声を張り上げた。


「はい。どちら様ですか」

「いーもーこー!開けてー!」


呼び方からして明らかに新聞の人ではない。でも聞こえてきたのはカレー臭いアホの声とも違うもので、もっと女子特有の高く可愛らしい声。今まで、半分寝ていた脳が一気に覚醒した。急いで鍵を開けて取ってを掴んでドアを押し開けると、そこには頬と鼻を真っ赤にして、両手にビニール袋を持ったクラスメイトであり友人のが立っていた。

わざわざ一人暮らしをしてまで、遠くからの中学校から、今の学校に入った僕は、高校に入りたての頃は上手くやっていけるか不安だった。そんなとき席が近いということもあって、とはよく話すようになった。今では、クラスの中では同じクラスの鬼男と曽良とと僕の四人でいることが多い。

は、僕の顔を見た途端、満面の笑みを浮かべた。そして、愉快そうに僕の顔に向けて、指を差して言う。小さい子がやったら、母親に人を指差すなと怒られそうだが。


「妹子、すごい寝癖」

「ぇっ、うわっ」


の指の先を辿り、指してる部分を手で押さえれば、髪がそれに反発するのを確かに感じた。寝起きだったとはいえ、寝癖をつけたまま玄関に出るなんて。知らない人よりは、友人のほうが気心が知れてる分いいだろう、という訳にはいかない。太子とかだったら毛ほども全然気にしないが。さすがに、好きな人の前で髪型を気にしないはずがない。そう、僕はが好きだ。好きの前に『とても』とか『すごく』の言葉がついてしまうほど。僕はの笑ってるところが好きで、が泣いていれば悲しくなった。の大切なものは僕の大切なもので、は僕にとって大切な存在だ。それが恋とか愛だとかそういう感情だと気づくのにさほど時間は要らなかった。

寝癖を指摘されたのが、恥ずかしいのと少し悔しくて、「も前髪寝癖ついてるよ」とたわいもない嘘をついた。は真に受けて「うそっ!」と叫んで、さっき僕がしたように、前髪を押さえつけた。慌てたように強く前髪を撫で付けるをみて小さく笑いながら「嘘だよ」と言った。は素直、というかいわゆる天然なんだろう。昼休みに教室に異臭を振りまきにくる太子の歩く巨大おにぎりの話や、大王の似非知識を本気で聞いているあたりがそうだといえる。

が文句を言っているのを見て、チワワとかの小型犬が高い声で他の犬に威嚇している姿を思い出した。そしては、騙されたのが相当悔しかったのか「妹子のばーか!」の後に、どこで覚えたのか「正月は芋しか食べないくせに!」と続けた。今度太子に、妙なジンクスのある洗濯機で洗ったたこ焼きみたいな味がするアイスを一年間分プレゼントしてやる。

はまだ文句を言いながら、口を尖らせて、そっぽを向いている。僕はその仕草を見て、どうしようもなく心が疼いた。そのやわらかい髪に、そのふんわりと赤く色づいた人形のような頬に、伸びそうになった手を戒めるように握り締めた。そのことには気づいていないだろうけど、なんとなく気まずくなった僕は話題を変えようと、タイミングを逃していた疑問を口にした。


「そもそもは今日、どうしてこんなとこに?」

「バレンタインのチョコ作りを手伝ってください!」


にっこり笑ったは両手に握られているビニール袋の片方を僕の顔の前に突き出した。そして、僕の横を通り抜けて玄関まで入ってきて、ドサッと音をさせるように大きな袋を、僕の足元に思い切り置いた。ブーツをそそくさと脱いで、そのまま小さなキッチンまで向かった。


「なんでわざわざ、僕の家で…?」


が置いていった袋を持って、僕もキッチンに歩きながら問いかけた。それに対しては何故か小学生時代からさかのぼって話し始めた。なんでそんな昔から…と思いながらも、結局口を挟まないで聞いていたのは、があまりに楽しそうな顔をしていたからだ。僕が寝癖を直しているときも、トイレで部屋着に着替えているときもは話し続けた。

僕はが持ってきたレシピと睨めっこして、チョコ作りを手伝いながらそれを聞いた。料理はこの一年弱、自炊をするよになり、それなりのものは大体作れるようになったが、お菓子作りとなると、話は別だ。とりあえずレシピに忠実に進めることにした。

は途中で何回も関係ない話を挟んでくるから、内容のわりに時間がかかった。長々と続いたの話を要約するとこうだ。は驚くほど不器用で料理はこれで、生まれて8回目。小学校の調理実習4回と中学の調理実習3回を引けば、初めてだ。しかもは調理にはほとんど参加していなかったらしい。「私は食べる専門だから!」と胸を張られても、どう反応すればいいのか。一人では絶対作れないと思ったは、今日は家に母も頼れる人もいないため、僕に手伝ってもらうつもりで来たらしい。

確かには料理が苦手なんだろう。想像もしないようなところで、ことごとく失敗していくから気が抜けない。たとえば、材料を量るときに皿の重さを引くのを忘れたり、大さじと小さじを間違えたり。そのたび「なっ…ちょっと待った!」と大声をあげて止めることで精一杯だった。でも、のボウルの中でチョコ混ぜる姿は、あまりに柔らかく優しい雰囲気を纏っていた。伏せられた睫毛が微かに瞬くたびに僕は先程抑えた心の疼きをまた感じた。チョコ作りは色んな意味で緊張の連続だった。


努力の甲斐あってなんとか、形にすることができた。二人ともほぼ初心者で作ったわりにはなかなかの出来だと言えるだろう。は出来上がったチョコをどうやって持って帰るか考えていなかったらしい。らしいな、と思わず小さく笑ってしまった僕に、はまた頬を膨らませた。僕はそれに相変わらず笑いながら、ゴメンゴメンと言って、「じゃあ、このタッパーを貸してあげるからこれに入れていきなよ」とキッチンの上の収納棚から取り出した。は「さすが妹子!」と目を輝かしては、そのタッパーにチョコを丁寧に詰めていった。僕はその様子を眺めながら、とくに疑問とも思ってなかった疑問を口にした。


「そのチョコは誰に渡すの?」

「えー、ナイショ!」


え…まさか、本命…!?

当然のように「友達」とかそんな返事が返ってくると思っていた。には、好きな人がいたのか。なんで僕は好きな子の本命チョコ作りの手伝いなんてしていたんだ。こんな仕打ちってないだろう。はナイショと言ったものの、少し考えたように黙ると、その後に頬を染めて、顔を俯かせて小さな声で言った。


「ヒントはー、カレーが好きな人…かな」


眩暈がした。それはヒントとは言わない。むしろ正解を言ってるようなものじゃないか。まさか、があんなアホを好いているだなんて。ありえない。この世の不条理を思い知った。今からでも遅くない。アレだけは止めとくべきだ。


「な、なんで、太子なんか…」


うまく喋れない。言葉がなかなか口から出ようとしてくれない。が太子が好きだいう事実を口にすると余計に傷ついた。は今まで俯いてた顔を勢いよくあげて、僕を限界にまで見開いた目でみた。あと、口も少し開いてた。


「妹子…なんで好きな人分かったの…?」

「隠してるつもりだったのー!? だって、そんなの分かるに決まってるよ…」

「え、えぇ…!そっか…分かっちゃうか…」


また俯いたは「あー恥ずい…」とか何やら小さくうめいていた。そのあと、少し顔を上げて僕を見るので、自然と上目遣いになったがはにかんだ。心臓が大きく跳ねた。上目遣いは反則だろう。そしては「誰にも言わないでね」と笑いながら言った。そしてチョコを詰め終わったは、使ったボウルやら、泡立て器やらを片づけを始めた。僕はの隣に立って、流し場でスポンジを2、3回握って、洗剤を泡立てた。僕が洗った物を、が布巾で拭く。そんな単純作業を繰り返している間、ずっとお互い口を開かなかった。気まずい沈黙を蛇口から出る水の音だけが誤魔化してくれた。

すべての洗い物が終わって、が「じゃあ、帰るね」と明るい、でも小さな声で言った。僕はなぜかの目を見れなかった。は来たときと同じように玄関に座り込む。ブーツを履いているの背中を見て、何度も口を開きかけた。いや、実際は開いても何も出てこなかった。そして、そうこうしているうちには立ち上がって、荷物を手に持った。僕がそんなふうに思い悩んでいることも知らずに、は「妹子、今日は手伝ってくれてありがとう。」なんて満面の笑みを浮かべて言うのだ。そして玄関のドアを開けて、は外の廊下を歩き出した。が少しずつ離れていく。が少しずつ小さくなっていく。


!」


気がつけば叫んでいた。すでに、5、6メートル先にいるが歩みを止めて振り向いて「なーにー?いもこー」といつもより少しだけ大きな声で聞いた。

「がんばれ」それが、きっと友達としての小野妹子の正解だ。を困らせないためにも、の恋を見守る友人を演じるべきなんだろう。でも、僕はどうしたいんだ?止めたいに決まってる。すぐにでも抱きしめて、好きだと伝えたい。でも僕はにとっては友達でしかない。好きだと伝えたら僕はの友達ではいられなくなるのだ。だっての特別な場所には既に別の人間がいるのだから。じゃあ、僕は一体、の何になるんだろう。

止めるべきか、見守るべきか。

いつまでも黙っている僕にが視線で促す。
僕は心を決めて、口を開いた。






止めるべきか、見守るべきか、

それが問題だ。






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