何かに意識が引っ張られるかのように目を覚ました。布団から起きだし、障子をからからと両手でゆっくり開けた。何となく明るいものの、まだ空は日の出どころか、日の光も迎えていていなかった。もう一度眠りにつこうと、まだ自分のぬくい体温の残る布団に入って、目を瞑った。いつもなら、そのまま沈んでいくはずの意識が、やたらと冴え渡っていた。いつもは睡眠としてでしか過ぎる去ることのない時間を今日は散歩をして過ごすことにした。寝間着を脱いで、着物に袖を通し帯を締める。

外に出ると、肌に当たる風が体温と大差ないのか、風に当たる感触はあるものの、冷たさは感じなかった。目覚めるにはまだ少し早い時間。私と同じように早く目覚めてしまったのか、幾人かとすれ違った。



あの人のいない朝を何度迎えただろう。あと何回あの人がいない夜を過ごすのだろうか。
考えたくもなかった。どうして曽良くんはこうも簡単に離れることができたのだろう。そのうえ、いつ帰ってくるか分からないだなんて。旅に出る三日前に、曽良くんは「芭蕉さんと俳句の旅に出ます」なんてまるで近所にちょっと散歩に行くみたいに言うもんだから、私も「そうなんだ」としか答えられなかった。

私が曽良くんをいつまでも好きだなんて保障はどこにもないはずなのに、曽良くんは簡単に私を置いていった。多分、私が曽良くんをずっと好きでいるのが当たり前みたいに思ってるんだ。それがひどく悔しい。『他の人と』なんてことも考えたこともある。半分は曽良くんに対するあてつけだけど、本当に離れたほうがいいんじゃないかと思ったのだ。(離れるといっても、距離的な問題ではなく、心の問題としてだ。)でも実際は、曽良くん以外の人を好きになるなんて考えられない。曽良くんを好きでたまらなくて、曽良くんの思うとおり、ずっと曽良くんを好きでいられてしまうことがもっと悔しい。

あぁ、だめだ。思うたびにひどく心が乱されるものだから、最近は曽良くんのことを考えるのを止めようとしていたのだった。これがなかなか難しく、上手くできた試しがない。それでも私は何とか頭の中から曽良くんを追い出そうと、頭を空にするため足を動かした。

とくに行くあてもないまま、不必要にゆっくり歩いていると、また向かいから歩いてくる人が目に入った。少し年のいった中年の男のようだ。何気なく顔をちらりと見ると、目を合わさぬ様にしたにもかかわらず、思い切り目が合ってしまった。そこで初めてその顔が知り合いだということに気づいた。私が常連として通っている小さな米屋の主人だった。主人も私の顔に気づいたようで、挨拶代わりに「今日は空が綺麗ですね」と微笑んで通り過ぎていった。大して空など気にしていなかったが、私は笑いながらも「そうですね」となんともありきたりな言葉を返した。空には日の光を浴びた雲が優雅に流れ、確かに静かな美しさがあった。空は、いつの間にか日の出を迎えていたようだ。





空、ソラ、そら。
あぁなんて甘美な響き。たった二つの音の羅列でこんなにも幸せな気分になれるとは。口に出してしまうのが惜しいほど。体の中にその音を留めておきたい。体の外に逃がしてしまうのはもったいなく思えた。できるだけ音を逃がさないようにほぼ口を閉じた状態で呟いた。体中を恍惚が走った。もう一度だけ言ってしまおうかしら。

再び空を見上げた。今日は空が青い。雲も溶けて空と身を一体にするかのよう。
青い空と白い雲。青、白、青、白。
青と白はまるで共にあるが為に生まれてきたのではないかと思うほど。そしてこの二つの色彩は空の為に生まれてきたのではないのか。空、ソラ、そらの為に。

空と雲を見て、私はほとんど無意識に、曽良くんと、曽良くんが常に着ている着物を思い出していた事に気づいた。そして、また曽良くんに思考が占領されていたのだと思うと、なんだか泣きたくなった。曽良くんの思考は私で満たされることはないのだと知っているからだ。私は更に歩き続けた。






道端に花が咲いている。百合の花。白くて凛としていて、そっくりだ。他の雑草の花の群れから離れて、たった一輪で咲いている。離れた場所には何十本も雑草がかたまって生えていた。雑草は、背丈の割にとても小さい花が付いていて、それがあまりに不恰好だった。その群れは風が吹くと、さわさわと周りの花と支えあうように揺れた。その百合だけが一輪で風を受けていた。やっぱりそっくりだ。私は泣きそうになって、堪えようと目を細めたせいで、百合の花を睨みつけるみたいになってしまった。

私はずんずんと、道のわきに向かっていった。そして、群れから雑草を一株、根を傷つけないように丁寧に引き抜いた。途中で通りすがりの人が何か言いたげだったけど無視した。多分、「花が可哀想だから抜くな」とか言うつもりだったんだ。今のままのほうが可哀想なのに。本当に分かってない。そして、さっきまで一輪で咲いていた百合の花の隣に、引き抜いた雑草を植えた。大輪の百合と花の小さすぎる雑草は、情けないほど不釣合いだった。でも、これでもう寂しくない。悲しくない。私の目に溜まっていた涙が自然とひっこんだ。私の手は指と爪の隙間まで土だらけだったけど、私はとても満たされた気持ちでまた歩き出した。

あぁ、またやってしまった。考えないようにしているのに、百合を曽良くんと重ねてしまうなんて。しかも、こんなに手まで汚して、私は何をしているのだろう。左右の互いの手で手の土を払い落とす。そうして、目に見えるものを消すことで、私は曽良くんを思い出してしまったという事実から目をそらした。





もうすでに日は大分昇っていて、何もない道とはいえ町につながる道だからか、人通りが増えたようだ。このまま向かえば町に着くだろう。とくに目指すところも無いが、そのまま相変わらずゆっくり歩き続けた。すると、全身真っ黒な猫が道の端で顔を前足で拭っているのが見えた。そして、前足をもとの位置に戻し、きっちり座ったかと思うと私をじっと見た。あまりに強い目でまっすぐ見るものだから自分よりもずっと小さい猫相手にたじろいでしまった。そして、馬鹿馬鹿しいことに目の前の黒猫の口から声が聞こえた気がした。

『芭蕉さんと俳句の旅に出ます』

まただ。また出てきた。曽良くんが私の頭の中にまた出てきた。私は曽良くんにそう言われた時と同じに、私をまっすぐ見る目から、無理やり視線を逸らした。だめだ。だめだ。と心に唱えながら更に道を進んだ。そのまま、黒猫を二度と見ることの無いように、決して振り返らないように。






町はすでに人で溢れて、さすがに今までのようにゆっくりと歩くのが難しくなった。それでも下を向きながら歩く私は、次々と人の波に追い越されていった。前に二人で町に来たとき、今日のように人が多くて、迷子になりかけた私に言った曽良くんの言葉が頭をよぎった。

さん、何してたんですか。子供じゃないんですから、芭蕉さんみたいに勝手に動き回らないでください』

私は叱られてるにもかかわらず嬉しくなった。そっけなかったけど、曽良くんが右手を差し出してくれたからだ。私はその手に掴まり、離れないように強く握った。そんなことをぼんやり思い出しながら、何かを掴むみたいに左手を握った。でも私の左手には今は何もなくて、握っても自分の爪が手のひらに食い込むだけだった。そして、私は更に下を向いて歩き続けた。するとさっき思い出していた声が耳に響いた。待ち焦がれていた声が私の名を呼んでいる。



さん―――」


「―――曽良くんっ!」



私は顔をはじかれたようにあげて、その待ち焦がれた人の名を叫んだ。目の前に映ったのはいつもと同じ、曽良くんのいない町。通り過ぎる人は、私と目を合わさないようにしながらも、不審そうに視線を寄越すのを感じた。しばらくして、さっきまでのように顔を俯かせ、歩いてきた道を引き返すため、また歩き始めた。寂しくはない。私は貴方をどこにでも、何にでも見出せるからです。でも、ひどく虚しいのです。いくら思い出そうとも、あなたは此処には居ないのですから。







家に戻った私は畳の上に寝転がった。以前そうしていたように、通りに面した障子のほうを向いて横になった。半分ほど開いている障子の隙間から強烈な橙色の光が射し込む。四角に区切られている和紙は、橙色を薄めてぼんやり光り、部屋にいくらかの明るさを届けた。一緒に寝るときは曽良くんはいつも障子側にいた。壁に飾られた絵巻きのように、部屋に浮かぶ空。その額縁からただぼんやり空を覗いた。

やがて夕暮れが去り、代わりに闇を連れてきた。お腹に違和感を覚えた。そういえば起きてから一度も何も口にしていなかった。どうでもいい、曽良くんが居ないなら何もかもどうでもいい。よくそんな日々を過ごしているものだから、最近随分と手首がやせ細った。帯が長くなったような気がする。


朝が来なければいい。このまま夜が明けなければいいのに。


「曽良くん…いつまで?」


曽良くんがいない明日なら、来なくていい。また今日のような一日は過ごしたくない。
そう思って毎晩、目を閉じるのだ。この一年間、毎日。


「曽良くん…どこ?」


何回、あの人をいない朝を向かえても、落胆は毎度等しく訪れる。慣れる、なんてことはなかった。


「曽良くん…」


彼がいなければ私は目を覚ますことすら恐ろしいのだ。前は、隣にいる彼の寝顔を眺めるのに、眠りにつくことすら惜しかったのに。そうやって明日に怯えながら、目を閉じた。
どうせ明日もまた今日のような一日は待っているのだ。



連想遊戯




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