馬鹿だな。運命だなんて人間の幻想だと一番よく知っているのに。
え?あ、なんでもないよ鬼男くん。ただの独り言だよ。
ん?さっきの女の人?
うーん、まあ知り合いといえば知り合いかなぁ…
ねぇ鬼男くん、少し昔話をするからさちょっと聞いててよ。
違うよ!サボりじゃなくて…仕事するよ!するから爪伸ばさんといて!
相変わらず部下が辛辣…。
聞いてやるよ。って君…、一応仮にも部下なんだからできれば敬語で…。
…まぁ、つまらないかもしれないから、適当に聞き流しててくれていいよ。
オレは永らく冥府の王として君臨し、途方もない数の死者を裁いてきた。いつからか、気づけば自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなっていた。
もとより冥界にいるのだから『生きる』という概念は無いのかもしれないけどさ。かといって閻魔大王が『死ぬ』ということもないからね。だから、ただそこに存在するだけ。その存在すらわからなくなっていた。
でも以前は、自分の存在に意味を見つけ、死者を裁くことにすら希望を見いだせたときがあったのに。どうして前はそんなことが思えたんだろうか。どうしてだったっけ…?あ、そうだ。あの頃にはあの人がいた。あの人がいたからオレは確かに『生きて』いた。
不思議な女だった。地獄に行くような人間は皆、虚飾や虚栄心、誇りなんてものは命と共に失くしていて、罪を軽くするためなら地に這いつくばって懇願するような者ばかりだった。でも、その女は地獄行きを告げると、寂しそうに微笑んで、鈴を転がしたような麗しい声で静かに「承知しました」とだけ答えた。そして極卒鬼に連れられ、地獄の穴に落ちるというとき、女は戸惑いがちに振り返って、オレにこう問いかけた。
「閻魔大王様。お辛くはありませんか?」
「…は?」
「現世で、閻魔大王たる方は死ぬこともかなわず死者を裁き続けると聞きました。」
「………」
「お辛くはありませんか?」
なんて傲慢な人間だ。他人の悲哀を感じ取り、代わりに嘆くことで勝手に自己満足に浸る。そんな思ってもいないことを無理に考えて、思い込もうとしたのは、女が言ったことを図星だと感じたのかもしれない。こんな人間の小娘に言い当てられたことを認めたくなかったのかもしれない。オレの顔に憤りを見たのか、女はうろたえて「出すぎた事を申しました。」と口早に言って今度こそ地獄の穴へと落ちていった。
閻魔帳には彼女の死因は自殺と記されていた。その当時の人間の世は正に戦乱の時代だった。武家の娘として生まれた彼女は戦という時代の波に巻き込まれた。彼女の一族は圧倒的不利な状況に陥り、彼女の逃げ込んだ山奥にまで敵兵が迫った。そして彼女は敵に捕まり生き恥を晒すよりは、と自害を選んだ。天寿の前に自らを己の手にかけるというのは、最も重い罪の一つで、地獄行きを免れることはできない。もちろん彼女も例外ではなかった。
そのあと、幾人の死者を裁いたが、オレに問いかけたあの女が何となく気がかりで、地獄を見回りに行けば、自然と彼女のもとへと足が向いた。あの質問が、オレの気に障ったと感じていた彼女は、何の罰を与えられるのかと怯えていていたようだ。鬼に連れられている彼女はオレの姿を見ると、足を止めて表情を曇らせた。
「閻魔様…」
「そんな構えないでよ、別にとって喰おうって訳じゃないんだからさ」
「は、はい…」
初めはぎこちなかったものの、何度も会えば緊張も解けたようで、素の笑顔を幾度と無く垣間見た。
オレは、彼女が稚児のように純潔で無邪気な顔をして笑うことを知った。美しい心を映し出したような和歌を詠む才能を持ち合わせていることを知った。そして何より優しい人なのだと知った。
彼女は、オレはとても柔らかく微笑むのだと言った。人の心の奥を汲み取れ、その心を大切にする人だといった。そして何より優しい人だと言った。
そんな風に、オレと彼女はお互いのことをゆっくりと知っていった。そしていつか、言葉を交わしていくなかで彼女が言った。
「私は生まれ変わったら鬼になりとうございます。」
「鬼に…?」
「さすれば、閻魔様のもとに仕えられる。閻魔様と共に生きられる」
そんな大層な話を微笑みさえ浮かべてする彼女を羨ましく思うと同時に憎しみに近いものをを感じた。所詮、たった十数年を生きただけの人間と、永遠の中に身を置く冥府の裁判官とでは、感覚も思想も違うものだ。そんな風に未来に期待することはもう忘れていた。夢見がちな願いをする彼女に、残酷な現実を知らせようと、オレは自嘲的に笑って言葉をそっと吐いた。
「…オレは生きてはいないよ」
「いえ、生きておられます。」
そう言って、彼女は優しく包み込むようにオレの手を握った。すべるような白い肌。死者には、体温も無ければ、感覚も無い。だから彼女はきっと嘘を吐いたのだ。
「ほら、こんなにも温かいではありませんか。閻魔様は確かに生きておられます」
優しい嘘だった。不意に涙がこぼれ落ちていた。今までこんなに優しい言葉がこの死後の世界に存在しただろうか。こんなに穏やかな気持ちになったことがありえただろうか。初めて人の優しさに触れたと感じた。
そうやって地獄に降りる度、何回も彼女のもとに訪れた。彼女と言葉を交わすことで、オレは彼女の言葉に癒された。しかしその時間もほんの刹那。とはいってもそれはオレにとっての感覚で、彼女にとっては永遠に等しい時間だったのだろう。そうして彼女は、自ら命を絶った罪を地獄の罰で償い、新たな命として転生していった。
そして長い年月を隔て彼女は再び人間へと転生した。それまでの間、黒猫や犬や美しい鳥など、様々な器にその魂は移り変わって、この冥界を訪れた。
人間に転生したと思ったら、もう彼女がこの冥界に来たと聞いた。人間の一生とはなんて短く儚いものだろうか。でもとてつもなく長い時間を過ごした気もする。
彼女はオレが再び会えることをいかに待ち焦がれていたかなど知るはずもない。彼女には前世の記憶など持ち合わせてはいないのだから。それでも目の前に現れた彼女は、知らずとも、前の人間だったときの彼女と同じ言葉を口にするのではないかと、そんなことを考えていた。
「次の方、さん。どうぞ」
鬼男くんがその名を呼ぶと一人の若い女が入ってきた。彼女の死因はまたもや自殺だった。また、地獄での苦しみを受けさせることになると思うと、地獄行きを伝えたくはなかった。彼女の姿は前と同じように、この場所に来るにはあまりに若い姿だった。
「君は、地獄行きね」
オレの判決を聞いた彼女が口を開いてまたあの時のような麗しい声で言葉を紡いだ。
しかし、それはオレが期待していたものとは、まったく違う言葉だった。
「天国に入れてください!彼に会わせてください!」
馬鹿だな。運命だなんて人間の幻想だと一番よく知っているのに。なのにオレは、彼女との出会いに運命のようなもの感じていたんだ。オレのことを忘れていたとしても、再び会えば、愛し合えるのではないか、なんて考えていた。オレは少し、永く人間と関わりすぎた。
今度の自殺の原因は、恋人の死。つまりは、後追い自殺だった。オレは隣に立つ秘書にできるだけ動揺が伝わらないように、静かに深く息を吸った。地獄の穴から、微かに血の匂いがした。体内に取り込んだ腐臭をそのまま、毒のような言葉として吐いた。
「そんな事言ってもねぇ。どんな理由があろうと自殺は地獄行きなんだよ。可哀相だけど」
可哀相、というわりには薄く嘲笑を浮かべて、閻魔帳に目を通す。でも声は温かみのない冷えた声で、できるだけ彼女が期待を持たないように言った。それでも尚、彼女は哀願する。それはそうだ。オレが一言、言ったくらいで納得するなら、後追い自殺なんてしないだろう。
「お願いです…一目でいいんです…」
オレは相変わらず、薄ら笑いを浮かべたまま答えた。感情を出すなと自分を戒めながら。絶望してもいいから、その男のことは諦めて欲しい。君を死なせるような男のことはもう忘れてしまえばいい。どうかもう、その男に会えるだなんて期待しないでほしいと。その男との恋はもう終わったものなんだから、もう死んだ恋なのだから。オレは更に続ける。彼女にとって絶望的な言葉を。
「冥界は現世と比べものにならないほど、果てしなく広いんだよ。君が思ってる以上にね。無理やり天国に入ったとしてもどうせ会えないよ。その上、その罪で更に苦しい罰を受けてさ。結局会えないまま転生するのがオチだよ」
「どんな罰よりも彼に会えないほうがずっと苦しい!あなたに私の気持ちの何が分かるっていうの!?」
その言葉は君にだけは言って欲しくなかった。オレたちはお互いに一番に分かり合えていたはずだったじゃないか。もう、終わってしまったんだと、悟った。いや、もうとっくに終わっていた。彼女が転生していった時から。オレは、そのとき自分の心の息が止まったのに気づいた。あぁ、死んだ。彼女に優しい嘘を言われたあの日から、確かに生きていたオレの心が死んだ。馬鹿馬鹿しい。死んだ恋をいつまでも引きずっていたのはオレのほうだったのか。
「――あぁ、分からないよ。人間の気持ちなんて。だってオレは閻魔大王だからね」
オレの言葉を聞いた彼女は下唇を血が出るほど噛み締め、涙と恨みの色が滲んだ瞳でオレを睨んだ。
あぁ…そんな顔をさせたい訳じゃないのに。
前はもっと優しく微笑んで、穏やかな瞳でオレを見てくれたのに。
悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。
「どうせ転生したら忘れちゃうよ?」
「そんなことない!」
「…実際忘れてるじゃないか」
「ぇっ…?」
感情が溢れそうになったオレに「…大王」と諫めるように鬼男くんが短く呼んだ。
この優秀な秘書には、事情を知らずとも、大体のことは飲み込めているようだ。
「これ以上時間を割くわけにはいきません。後の裁きに響きます。」といつも以上に業務的な声で告げた。
「わかってる。わかってるよ鬼男くん」
わかってるんだ。魂が同じだろうと、違う記憶を持った彼女はもう違う人間だ。目の前にいる女と彼女とは、まったくの別人だ。
オレはいつも他の死者にも言うようなことを、いつもと同じ口調で繰り返した。ただ、君には少しだけ優しく聞こえたらいい、と願いながら。
「大丈夫。失うことは怖いことじゃない。
確かに持っていられる量には限りがあるから、新しい何かを手に入れたら、
他の何かを捨てなければならない。
でも逆に、何か失くしたら、必ず新しい何かを与えられるはずだからね。」
この言葉は誰に向けたものだろうか。
「別れがあるから人と出逢うことに感謝できる。それに…」
彼女か、それとも自分か。
「それに、失うことより、失うことができないほうがずっと悲しいことなんだよ」
君との記憶を消せたらどんなに楽だろう。
でも自分が本当はそんなこと、望んでいないことを、オレはわかっている。
人はとても優しく、あまりに弱い。
だからこそ、別れに胸を痛めるのだろう。
そして立ち直る為に、また前を向いて歩くために、人は忘却を繰り返し、自己を癒やしていく。
次にまた、彼女が此処に来たときもオレは同じ言葉を繰り返すだろう。
その次の転生のときも、またその次ときも。
例え彼女が何回来たとしても、オレを思い出すことは、ない。
忘却
オレはあと何回彼女に同じ言葉を言えばいいんだろう。