。もうお前さ、俺に関わんな」


周りの薄暗さに伴い、街灯が点き始めた家までの道のりをひたすらに走った。
アスファルトに塗り固めれた地面が硬くて、地面を蹴るたび私の足を押し返す。
走ることを拒絶されているように感じた。
それでもただ走った。
冷たい風が顔に当たっても、ただただ、ひたすらに走った。

自分の1DKの安アパートの前まで着いて、やっと足を止めた。
そして、ペンキが剥がれ、錆び付いた階段を駆け上がれば、カンカンと硬く冷たい音が鼓膜を叩いた。
走ってきた私の息はあがっていて、息を吐くたびに口から白が漏れる。
まるで静雄のタバコの煙のようだと神様が揶揄しているように思えて、胸の中で鼓動と痛みが渦巻いた。



まさかこの街に住んでいて、彼の名を知らないわけが無い。
でも私は知らないふりをしていたし、
彼も私が本当は知っているのに気づきながら、知らないふりをしていた。
お互い、その話題に触れることは暗黙のうちにタブーになっていた。
それでよかった。だからこそ私たちは一緒にいれた。


何度も差し損ねた鍵穴に苛立ちながら、ドアを開ければ軋んだ音がした。
乱暴にドアを閉めたせいで、バンッと大きな音が背中に響いた。
ときに静雄が、今の私みたいに乱暴に扱うものだから――静雄と私では乱暴のレベルが違うが――立て付けの悪くなったこのドアを内側からそっと撫でた。

私は手も使わずに靴を脱ぎ捨てて、部屋に入った。
部屋の中は、電気を点けないと家具や壁の輪郭がぼんやりと浮かび上がる程度で、真っ暗といってもいいぐらいだった。
十数時間、誰もいなかった部屋は、もちろん暖房器具の類いがついてなかった。
そのせいで、ひんやりした空気を足元から感じた。
外の刺すような寒さとは違い、包み込む様な冷たさ。



(…そういや、前からこの寒さ、苦手だったな。別に、寒いのが嫌いって訳じゃないけど。)


外の寒さとは違うこの空気が、何故だかより一層、薄暗い部屋を寂しく見せる。
この冷たさの何かが『独り』を感じさせる。


(苦手だ…)



ドアと向かい合うようにして座り込んで壁にもたれ掛けた。
壁も、床も、更に体から体温を奪っていく。
あまりの寒さに放り出していた脚を曲げ、膝を抱えた。
閉じた瞼の裏には静雄の姿が浮かんだ。
その姿が後ろ姿だったことに、彼の拒絶を感じて、より一層強く、膝を抱える腕に力を込めた。
同時に彼の言葉が頭に響いて、耳を塞ぎたくなった。
でもその言葉は鼓膜を揺らして私の脳に届いているのではなくて、私の記憶が脳を直接ゆさぶっているとわかっていたから、耳を塞ぐかわりに、止まるはずもない思考を止めようとした。

後ろ姿と言葉から感じたのは、明らかな『拒絶』だった。


(…知ってしまったら、好きでいちゃ駄目なのかな。静雄は許してくれないんだろうな)


今まで、見なかったからこそ知らないふりができた。
なのに、今日の家までの帰り道で見てしまった。
想像を絶するほど、彼の暴力。
恐怖を感じるとか、そういうレベルではなかった。
理解不能。
まるで、ドラマか何かを見ているかのようで、目の前を飛んでいく標識や自販機を上手く認識ができなかった。


そして気づいた時には、ガラクタと化した公共物と人が転がる道に一人だけ、静雄が最後の生き残りみたいに立っていた。
静雄はいつ気付いたのかは分かれないけど、呆然と立ち尽くす私を見て驚いた様子もみせずに、私を見つめた。
その目には『決意』のような、どちらかといえば『諦め』のようなものが見えた。
あれだけ、荒れ狂うというほどに力を振るっていた人間とは思えないほど、ひどく落ち着いた目をしていた。
それが逆に恐怖を感じさせた。

私は、静雄に恐怖を感じてしまった。

静雄は何も言わないまま、ゆっくり背を向けた。
そして、私からは見えなかったが、動きからしてタバコに火を点けたんだろう。
一度大きく吸って、それから紫煙と共に言葉を吐き捨てた。


。もうお前、俺に関わんな」


逃げるみたいに走り出した。
そのままその場にいたら、もっと決定的な言葉をいわれると思ったからだ。
もう十分すぎるほど、別れるには決定的だったけれど。





しばらくの間、ずっと暗い部屋で静雄を想い続けた。
さっき見た鬼神のような憤怒に満ちた顔と、私の作った大して美味しくもないパスタを幸せそうに笑いながら食べる顔。
どっちも静雄なんだ。不思議だ。
どうして同じなんだろうと嘆く感情はなくて、ただ純粋に不思議だと思った。

突然、ガチャッと鍵穴のまわる音。
そのあとに、立て付けの悪いドアが耳障りな音と共に、部屋にアパートの廊下の蛍光灯のけばけばしい光を招きいれた。
暗闇の中にいたせいで、光に目が慣れていないからか、人の形をした影しか見えなかった。
でも、この部屋の鍵を持っている人間なんて、私以外に一人しかいない。
私は目を細めて、意味もなくほぼ無意識にその名を呟いた。


「静雄…?」


表情が逆光で見えなくて、戸惑いながら言葉を探した。
しかし、私が言葉を見つける前に静雄が座り込む私を抱き締めた。
驚きのあまり固まった体を、静雄は構わず緩く抱き締め続けた。
抱き締めたというよりは彼の腕に包まれたようで、静雄がわざと力を込めないようにしているんだと思った。
しばらくの間、無言のままそうしていた静雄が、先に沈黙を破った。


「ゴメン…。ゴメン、


そのまま静雄は呟くように続けた。


が今まで何も言わないでくれたから、何も聞かないでくれてたから…。俺は勝手に、それに甘えてた」

「…うん」


かすかな声で答える。
静雄は私に縋り付くように、抱き締める腕に力を入れた。
それでも、彼と私の間の隙間が無くなっただけで、強く抱き締められている感覚はなかった。
その様子はまるで母親に縋る子供のように、寂しかった。
一人で膝を抱えて、泣いているの子供のように、頼りなかった。
静雄の背中に腕を回して、静雄の掠れた声に小さく答え続けた。



「傷つけるかもしれねぇって思うと、怖ぇんだ」

「…うん」

「今まで、の優しさに甘えてたけど、今日やっと目が覚めた。
 やっぱり、お前のことだけは傷つけたくねぇんだ」

「…うん」


「だからとは、もう一緒にいられねぇ」


言われると分かっていた言葉だ。彼は優しいからきっとそう言うのだろうとわかってた。
この冷たい暗闇でずっと考えていたし、静雄がこの部屋に来た理由もちゃんと別れを告げようってことなんだろう。

静雄の言うことは分かる。離れたほうがいいのかもしれない。
でも『分かる』っていうのと『納得する』っていうのでは違うわけで、静雄が正しいと分かっていても、私の手は静雄の服を強く掴んで離さなかった。
それでも静雄が本当に立ち去ろうとしたら、私の力なんかじゃどうにもならないのだけど。
だから、静雄が離れるまで、それまでは、忘れないように焼き付けようと思った。
力強くて細い腕とか実は広い背中とか、嫌いだったはずの苦いタバコの香りとか。
でもいつまでたっても静雄が離れる様子はなくて、私は不思議に思って口を開こうとした。
それと同時に、静雄の声が耳元で震えた。
今まで溜めていたものを吐き出すような、どこか悔しそうな声音。




「――…傷つけたくねぇのに…!なのに、と離れる気もおきねぇんだよ…!」




目を見開いた。背中に回していた腕に力を込めた。
一緒にいてくれるかもしれない。離れないでいられるかもしれない。
だったら、私もちゃんと伝えなきゃ駄目だ。
大きく二酸化炭素と恐怖を吐いて、かわりに勇気と酸素を吸い込む。
緊張で唇が震えた。



「私も知らないふりしてた。言ったら終わっちゃう気がして。
 でも、全部静雄なんだよ。
 力のことも含めて、優しいとことか、照れ屋なとことか、全部。
 全部が静雄なんだよ。
 なのに今まで、見ないふりしてたんだよ、私。最低だよ…」



泣きそうになりながら、言葉を紡いだ。
静雄は黙って私を腕の中に抱いたまま、私の小さな声に耳を傾けた。



「ねぇ、静雄。私、静雄の全部を愛していたいよ。
 都合の良いとこだけ見て、好きだなんて言いたくない。
 だから、全部教えて。
 静雄をもっと知りたい」



静雄は驚いたように、体を離して、私の顔を覗き込んだ。
彼は私に会うときはいつも、トレードマークの一つともいえるサングラスを着けなかった。
さっきの喧嘩で壊れたのか、私に会うからわざわざ外したのかは分からないけど、今日も彼の瞳の前には何の隔たりもなかった。
だから、彼の眼が揺れ動いているのがはっきりと見えた。
珍しく声も戸惑うようでゆっくりと問う。



「…いいのか?俺のこの力は自分でも抑えきれねぇんだ。
 だから、お前のことをいつか――」


「――傷つけたら、なんて考えないで」



静雄の声を遮るように強く言い放った。
静雄のなかに不安なんて、少しでもちらつかないように、静雄の目の奥を見つめた。



「静雄に傷つけられることより、一緒にいれないほうがよっぽど痛いの。
 だから、傍に居させて」



静雄は今度は何も言わなかった。
真剣な、感情読めない顔でじっと私を見つめてから、腕を引いて再び私を抱き寄せた。
でも、先程とは違って強く強く抱き締めた。



「静雄、好き。もう、見ないふりなんてしない。
 あなたの全部を受け止める覚悟はできてるの。
 だから勝手に一人でどっか行っちゃヤダよ」


静雄の服をぎゅっと掴む。
それに応えるように静雄もより一層、強く抱き締めた。


「わかった
 お前だけは絶対に傷つけたりしねぇし、別れるなんてこともいわねぇ。
 ってか、んなこと言われたらもう一生離さねぇぞ」

「ふふ、喜んで」



静雄の体も同じように冷たかったはずなのに、
さっきのような部屋の冷たさは、いつの間にか感じなくなっていた。




冷たい温もり



(静雄、冷たい)(だって冷てぇだろ)(…でも、温かい)(そうだな)



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